ドラクロワのリトグラフや着物、和装小物など買取り致しました。
買取した品 | |
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リトグラフ 絵画 着物 和装小物 | |
買取方法 | 出張買取 |
お住まい | 埼玉県さいたま市浦和区 |
買取参考価格 | 160,000円 |
※買い取り価格は当日の価格であり、その価格を保証するものではありませんので予め御了承下さい。
※状態や付属品の有無、買い取り方法などによって価格が変動いたします。
スタッフからのコメント
さいたま市浦和区のお客様より遺品整理の際にお電話を頂きましてお伺いさせていただきました。
ドラクロワのリトグラフの他、絵画や掛軸、着物など一点ずつ査定をさせていただきました。納戸にしまわれている額も壁にかけられている額もシミ汚れやヤケもなく状態の良い物ばかりでしたので高額査定をさせていただきました。着物は夏物の訪問着の他、紬や帯、和装小物などがございました。少々シミがございましたが全て買い受けさせていただきました。
ご依頼くださいまして誠にありがとうございました。
ドラクロワ
強烈な色彩と動的な構図による劇的な表現でロマン主義を代表するフランスの画家です。
パリ近郊のシャラントン・サン・モーリスに生まれ、幼くして父を失ったのちパリに移り、リセ・アンペリアルで古典的な教育を受けました。1815年、母方の叔父で画家のアンリ・リーズネールの勧めで美術学校の教師ゲランのアトリエに入り、翌年美術学校に入学します。しかし師のアカデミックな考えには共感を覚えず、ルーブル美術館で模写したルーベンスやベネチア派から多くを学ぶとともに、年長の友人ジェリコーらが絵画にもたらしたロマン主義の新たな息吹に鋭く感応します。22年、サロンへのデビューを飾った『ダンテの小舟』は悪評を買う一方、アドルフ・ティエールの熱狂的な賞賛を得て国家買上げとなり、彼の名は一躍有名になりました。24年のサロンにはギリシア独立戦争という同時代の事件に取材した『キオス島の虐殺』を出品。翌25年、数か月間イギリスに滞在、イギリス美術の知識をさらに深め、とりわけコンスタブルやボニントンの輝かしい光の表現と自在な描法から影響を受けました。またシェークスピア劇の上演を観て感激し、その主題は以後さまざまな形で彼の作品に現れることになります。27年のサロンにはバイロンの詩劇が構想の出発点ともなった『サルダナパロス王の死』を、31年のサロンには前年の7月革命をたたえる記念碑『民衆を導く自由の女神』をそれぞれ出品して、自己の個性をはっきりと打ち出しました。
1832年、偶然の機縁からモルネー伯爵の外交使節団に随行してモロッコを旅行。強い光の下での鮮やかな色彩効果に、色彩画家としての自己の天分をいっそう強く自覚するとともに、人々の生活ぶりに古代ギリシア・ローマ人にも匹敵する威厳をみいだし、いまに息づく古代の姿に感銘を受けました。このモロッコの思い出から、『アルジェの女たち』(1834)や『モロッコのユダヤ人の婚礼』(1841)などが生まれます。これらと並行して、政府から建築物装飾の依頼を受け、偉大な伝統の担い手との自覚をもって大画面の制作に積極的に乗り出すことになります。ブルボン宮の王の間(1833~38)および図書室(1838~47)、リュクサンブール宮図書室(1840~46)の装飾がそれであり、色彩画家としての力量を発揮しつつ、全体的な統一感を達成します。晩年にもルーブル宮アポロンの間の天井画(1850~51)やパリ市庁舎の平和の間の装飾(1852~54。1871焼失)、サン・シュルピス教会聖天使礼拝堂の壁画(1853~61)に取り組み、古典や宗教の主題に対する深い理解を示しました。55年のパリ万国博覧会ではアングルと並んで特別に一室が提供され、この巨匠の画業を回顧し、その偉大さを再確認する機会ともなりました。しかし念願のアカデミー入りは37年来しばしば落選の憂き目をみ、57年にようやく会員になりました。
ドラクロワは、歴史や神話、宗教や文学などの主題をよくし、ルネサンス的伝統の最後に位置する大画家であるとともに、その色彩や補色関係の研究、筆跡の残るスケッチ状のタッチの効果的使用は、印象主義や新印象主義、さらにはフォービスムにまでその影を落としています。1822年から書き続けられた『日記』はそれ自体文学の書であり、芸術論もまた19世紀文化に貢献するものがありました。